こまどブログ

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書けない言い訳を封じよう:『できる研究者の論文生産術』

ブログを書くようになって15ヶ月が経った。ブログを書き始めたきっかけをくれた師匠ともいうべき存在であるkakakakakkuさんは、三大欲求の一角を「ブログ欲」が突き崩しているとのことだが、僕にとっては今でもブログを書くことは苦痛を伴うものであり続けている。

fukabori.fm

「書きたい」のに「書けない」という人に

ブログは、書きたいと思っていれば書けるものではない。書きたいと思っていても書けないときはある。自分自身、むしろ書けないときの方が多い。書けない時間が続いているときは、「あぁ、ダメな時期がやってきたなぁ」と思う。

「まぁそんなもんだよね」と諦めてしまうのもいい。ブログを書かなくても開発者は生きていける。しかし、本当に書くべきなのであれば、書かなければならない。「書けない」と嘯いているわけにはいかない。『できる研究者の論文生産術』は、そのような状況に対する処方箋だ。

できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか (KS科学一般書)

できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか (KS科学一般書)

この書籍は、タイトルにあるように研究者、つまり書くことを仕事としている人に向けたものだ。著者の専門である心理学の知見も用いながら、「書く」ためのアドバイス・知見を紹介してくれる。ブログと研究論文との間の違いはあるが、その知見はブログ執筆にも役立てることができる。

「書けない」は「書いていない」でしかない

『できる研究者の論文生産術』は、「書けない」言い訳を封じていく*1。以下に掲げるものが、議論の対象となる4つの言い訳である。

  • 「書く時間がとれない」「まとまった時間さえとれれば、書けるのに」
  • 「もう少し分析しないと」「もう少し論文を読まないと」
  • 「文章をたくさん書くなら、新しいコンピュータが必要だ」
  • 「気分がのってくるのを待っている」「インスピレーションが湧いたときが一番よいものが書ける」

書籍では、これらの書けない言い訳を、一つ一つ論破していく。たとえば、スケジュールを守って書くことを拒む言い訳に対しては、以下のように辛辣に応答する。

「一気書き」派の面々は、執筆生産性の低さに話が及ぶと、自分のダメな性格に言及することが多いようだ。いわく、「自分は、スケジュールを立てたり、守ったりするようながらじゃない」。むろん、こういう議論に意味はない。人間というのは、変化を拒むときには、自分の気質のせいにしたがるものだ(Jellison, 1993)。「スケジュールなんてがらじゃない」と言う人ほど、別の場面ではスケジュールを完璧に守って、常に同じ時間に授業をし、就寝し、好きなテレビ番組を見たりしているものだ。*2

スケジュールを守れないと言っている人がその他の場面ではスケジュールを守っている。こういうことはよくある。当人に言わせれば、好きなことはスケジュール通りできるが、気が進まないものは無理ということだろう。しかし、こう答えることによって「スケジュールを守れない」というのが本当の原因ではないと語っているのである。

執筆時間を設ける

冒頭で、「書けない」時期に言及した。この言い訳に対しても、この書籍は応答する。曰く、「書けない」というのは、「書いていない」ということの言い換えでしかない。

スランプというのは自家撞着のよい例だろう。行動を描写しても、描写された行動の説明にはならない。スランプというのは、書かないという行動以外の何ものでもない。スランプだから書けないというのは、単に、書いていないから書けないと言っているにすぎない。それだけ。スランプという言い訳の治療がもし可能だとすれば、治療としては、書くことしかありえない。*3

対処法として提示されるのは、執筆時間を設けて、その時間に必ず書くようにするということだ。書籍中では、実験において、書くことを強制された群が、気が向いた時に書けばいいとされた群に比して多くの分量を執筆したということを論拠として挙げている。驚くべきなのは、執筆の強制によって単に量が改善しただけでなく、独創的な発想もまたより多く現れたということである。量は質に転化するとよくいうが、通常ひらめきの産物と思われがちな独創もまた量から生まれるというのである。

30分の執筆時間を設けろと言われた時に、「そう言われても書くことがないよ」という反応が当然出る。それに対しては著者は明確な答えを用意している。調査などの書くために必要な作業は、すべてその時間に行えばいいというのだ。

このぼろぼろの言い訳から脱却するのは簡単だ。執筆に必要な作業は、作業の種類を問わず、執筆時間中に行うこと。(中略)書くというのは、文字を入力するだけではない。書くというプロジェクトを遂行するうえで必要な作業は、すべて執筆作業だと考えてよい。*4

30分、一文字も書かなかったとしても、書くための作業をする。これを繰り返していけばよい。書けるようになる根拠は書籍中で示されている。もし仮にそれでも書けなかったとしたら、という疑問も出てくるが、それはそれでも良いのではないかと自分は思う。その30分は無駄には決してならないし、自分を許すことができると思うからだ。「書きたい」「書くべき」と思っているのに何も行動できていないときほど、自分を嫌いになるタイミングはないからだ。

研究者と開発者と執筆

研究者というのは、書くことを本分とする職業だ。大学教員などであれば、教育というのも確かに重要な職責だが、それは大学教員が研究者と教育者の両方を担うからでしかない。研究者は書かなければならない。

これに対して、ソフトウェア開発者はブログを書く必要はない。『できる研究者の論文生産術』で語られるメソッドをそのまま生活に適用しなければ生きていけない職業ではない。しかし、そういった中でブログを書こうとするのであれば、効果的に執筆作業を進められる習慣を身につけることには意味がある。

もし、ブログを書こうと思っているのに、そのために必要な行動が取れていないとすれば、「自分は本当にブログを書こうと思っているのか」を問うべきだろう。

できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか (KS科学一般書)

できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか (KS科学一般書)

小さな習慣

小さな習慣

*1:kakakakakkuさんのブログメンタリングにも通ずるところがある。

*2:16ページ。

*3:52ページ。

*4:20ページ。

ブログを始めて15ヶ月が経った

2018年4月22日にこのブログで最初の記事を公開してから、明日でちょうど15ヶ月になる。その間に公開した記事は72本だ。当初、ブログを書く目的として、以下の2つを挙げていた。

  • 長い文章を書く機会としたい
  • 勉強するきっかけにしたい

長い文章を書くということは、確かに達成できている。ソースコードが主体となる記事では文章は断片的になりがちだが、去年の夏から秋に書いた、悩んでいることをそのままドロドロにして出したようないくつかの記事は、本当に長いものが多かった。土日丸々、ときにはもっと多くの時間を投入して唸りながら書いた記憶がある。

あれらは、自分が1つの階段を登るのに必要な気持ちの整理だったと思うし、あの時の自分にしか書けない文章だった。あの時は仕事がうまく進められないだけでなく、周囲との関係も悪く、辛かった。しかしそれは同時に、実に健全な時期だったのではないかと、今では思う。周囲とぶつかるだけ元気だったし、理想にも(ナイーブ過ぎるほどに)燃えていた。あの時期に書いた記事は、「歪んだ」という修飾語付きではあるものの、確かに情熱の産物だった。

そういう代物だったから、はてブをたくさん獲得するような記事にはならなかったし、検索流入も(当たり前だが)ほぼない。でも、書いた当人としては一番手応えがあったのはああいう記事だったし、反応があった時に嬉しいのもああいう記事だった。

もう一方の目的だった「勉強」という点については、正直あまり達成できていないと思う。ブログを書き始めてからしばらくの間は、毎日GitHubに草を生やすという取り組みとの合わせ技だったから、プライベートでたくさんコードも書いたし、その成果をブログにもしていた。今でも検索流入が多いのは、あの時期に書いた「流行りの技術」寄りの記事だ。

でも、そういう記事については、「書いてよかった」という気持ちは薄い。誰かの役には少しは立っているのかもしれないし、ことによると転職のときには評価材料になってくれるのかもしれない。しかしそういうことには正直あまり興味がない。もちろん自分の勉強にはなっていたと思うし、当時勉強していた技術を思い出す際には便利でないことはないが、それだけ、という思いがある。

カカカカックさんのブログメンタリングを受けていたとき、再三再四、「技術ブログを書きましょう」というアドバイスを受けていた。週1回のノルマは必ず技術の内容が含まれている記事にして、それ以外の記事はオプションに留めようと心がけていた。でも、メンタリングを卒業してからはそこの制約は自分の中で取り払い、結果として技術に関わる記事は減った。書くこともあるが、やっぱり「書きたいのはこれじゃない」という感覚がある。

「技術ブログ」として継続できない理由は色々あると思う。コードを書くということが仕事においてあまりなくなっている中で、プライベートでコードを書く習慣もないことが、もっとも直接的に技術的なことを書けない原因だ。コードを書かなければコードを含む記事は書けない。でも、それは根本的な原因ではなくて、むしろコードを書くということ、プログラムを学ぶということについて目的意識をいまだに自分が持てていないということなんだと思う。

ここのところ、ずっと身の振り方を考えている。自分にとってブログは趣味ではない。この記事の前半で綴ったような側面ではそれはもっと実存に近いものだし、(現在は注力できていないが)技術者としての勉強という後半の側面ではそれは職業生活と密着したものだ。いずれにせよ、自分にとって身の振り方とブログとは密接不可分なのだと思う。ブログが迷走を止めるには、もう少し時間がかかりそうだ。

リチャード・ニクソン『指導者とは』を読んだ

リチャード・ニクソンの『指導者とは』の読書メモ。自らもアメリカ合衆国の大統領という「指導者」でありながら、近い時代の偉大な指導者たちのエピソードと自分自身の指導者論をまとめたもの。20世紀の世界史の主人公たちの伝記としても手軽で面白い。

指導者とは (文春学藝ライブラリー)

指導者とは (文春学藝ライブラリー)

指導者の逸話

チャーチル

チャーチルは少年のころ、友達と人生の意義を議論していて、人間はすべて虫ケラだという結論に達したことがある。だが、そこはさすがにチャーチルで、彼はこう言った。『僕たちは、みんな虫だ。しかし、僕だけは……蛍だと思うんだ』(18)

この後のマッカーサーについての逸話にも出てくるが、指導者たろうとすれば自らに自信を持つことが必要だというのがニクソンの洞察、あるいは信念であるように思われる。それにしても、この発言をしてチャーチルは仲間内で大丈夫だったのだろうか。

マッカーサー

マッカーサーは、常に周囲とは異なる人間であらねばならないと、努力し続けた。いささか子供っぽいまでの奇行は、そんな動機から発している。たとえば彼の異様な軍服。軍隊では全員が同じ軍服を着るのが一体性の証だが、マッカーサーは敢て原則を破り、目立とうとした。注意する友人がいると、『軍人は、いかなる命令を無視するかによって有名になる』と、平然としていた。(154)

「許可を求めるな謝罪せよ」というのがしばしばソフトウェア業界で引用される言葉であるが、マッカーサーはそれを突き抜けた言葉を残している。戦闘中には命令を無視することによって成功を収めることもあるかもしれないが、平時においても命令を無視しておくというのは一味違う。

ニクソンの指導者論

『偉業は、偉人を得ずして成ることがない。そして、偉人たちは偉大たらんと決意する意志力により偉大になる。』ドゴールは、そう書いている。指導者として大成する人は、強い意志を持ち、他者の意志を動かすすべを知っている。私が前章までに書いてきた指導者たちは、程度の差こそあれ、いずれも歴史に自己の意志を刻んだ人々だった。彼らが通常人より一段と高いところにいるのは、彼らがそうあろうと“願望”したからではなく“決意”したからである。この差が、権力とその行使を理解するうえで非常に大切になってくる。願望は受身だが、決意は能動。追随者は願望し、指導者は決意する。(414)

「追随者は願望し、指導者は決意する。」は引用したくなるフレーズ。我が身を省みると、自分は願望してばかりだと思う。

強い意志の力、強い自我意識なくしては、人は偉大な指導者になることはできない。最近はなるべく自我を隠し、自我意識などないようなふりをし、ひたすら低姿勢をとるのが流行のようになっているが、私は自己中心的でない大指導者など見たことがない。謙虚を装う人はいるが、実はそうでなく、彼らの謙虚はマッカーサーのコーンパイプがポーズであったように、ポーズであり、チャーチルの気取りがポーズでだった意味で気取りにすぎない。指導者がもろもろの勢力に打ち勝とうと思えば、それだけ自己を恃むところがなければならないし、指導者にふさわしく自分を鞭打って働くためには、それだけわが大義を信じていなければならない。自己を信じられないようでは、他人に向かってわれを信じよなど言えた道理がないからである。(428)

指導者は自分自身を、自分自身の大義を信じなければならない。謙虚を装うときも自覚的であらねばならないという教えは、なるほどと思うところがある。周りの意見にばかり耳を貸している自分には耳が痛い。

私が知遇を得た偉大な指導者にほぼ共通している事実は、彼らが偉大な読書家だったことである。読書は精神を広くし鍛えるだけでなく、頭を鍛え、その働きを促す。今日テレビの前にすわってぼんやりしている若者は、あすの指導者にはなり得ないだろう。テレビを見るのは受身だが、読書は能動的な行為である。(446)

この一節に接する瞬間は読書をしていたが、「ごめんなさい」となった。最近は読書にも身が入らず、受動的な娯楽をばかり楽しんでいるので、状況を打開したいと思う。