序
3月に発売された、上野学『モードレスデザイン 意味空間の創造』を読んだ。
モードレスデザイン 意味空間の創造 | 株式会社ビー・エヌ・エヌ
著者が「(書籍自体が)要約を拒否している」と述べている通り、非常に書評を書きづらく(要約をした上で特に気になった箇所を個別に論評するというのが自分にとってはよくある書評のスタイルである)、またなんとも言えない読後感を持った書籍であった。
『モードレスデザイン』は「何を書くか」と同じかそれ以上に「どう書くか」を重視した芸術至上主義的な本である。つまり要約を拒否している。強いて要約するなら、「モードレスで行こう」の一言になるだろう。
— Manabu Ueno (@manabuueno) 2025年4月16日
とはいえ、著者が想定しているのとは少しズレた属性の読者としての感想をある程度述べておくことには(AI時代においても)意味があると思うので、苦しみながらも書評を書き残しておきたい。
なお、先行する書評として、著者の経営するソシオメディア社で働いているデザインコンサルタントの方の書かれたものがあるので、紹介しておく。
この記事の筆者(評者)について
読み手によってかなり読み方や感想の異なる書籍だと思われるので、あらかじめ筆者の属性を明らかにしておきたい。このような属性を持った者が書いた書評であるということを踏まえて読んでいただきたい。
- 職種:ソフトウェア開発者。技術的にはバックエンドが主。
- 事前知識など:
- デザインに関しては開発者としてデザイナーと一緒に仕事をする限りでの経験のみ。多少書籍等で学習したことはある。
- 著者の上野学さんについては、Xでは以前からフォローしていて、『オブジェクト指向UIデザイン』や訳書の『ABOUT FACE』も読んでいる。
- 本書でしばしば引用されるクリストファー・アレグザンダー、アラン・ケイ、トリグヴェ・リーンスカウクについては以前から関心を持っており、著作や記事などを読んでいる。
- 哲学・思想系の書籍は読み慣れている。ただし、広く「ポストモダン」と称される論者の著作には親しんできていない。学生時代から接する機会はたびたびあったが、あまり関心をもてなかった。
メインメッセージとしての「モードレスなデザインによるユーザーの創造性の解放」
本書のメインメッセージは、「モードレスなデザインにより、ユーザーの創造性を解放せよ」といったところだろう。これは「はじめに」の冒頭で明記されている。
ソフトウェアのヒューマンインターフェースをデザインする上では、モードレス性を高めることが大切である。モードレスであるとは、モードが無い、あるいは少ないということ。モーダルな、つまりモードが有るデザインは、使用者を不自由にし、創造性を奪ってしまう。たとえば操作の途中で突然現れるモーダルダイアログは、それまで行っていた作業の流れを分断する。そして特定の入力や手順を一方的に強要する。デザインがモードレスであれば、使用者は自分なりの手順で、自分なりの工夫を加えながら、目標に向かっていける。作業がより有意義なものになる。(p.10-11)
このメッセージを、さまざまな論者を参照しながら伝えるというのが本書の軸である。この軸に沿って議論の要点に触れながら、個人的に印象に残った記述を拾っていく。
モードレス vs モーダル
「はじめに」でも、モードレスとモーダルとの対立構造が他のさまざまな対立構造と対応関係を持っているということが述べられているが、特にメインメッセージとの関連の強いものを取り出すとすれば以下が挙げられるだろう。この対立構造が繰り返し反復されていく。
モードレス | モーダル |
---|---|
オブジェクト指向UI | タスク指向UI |
コンテクストと直交する | コンテクストを固定化する |
目的は使用者が決める | 目的は道具に埋め込まれている |
「モードレス」とは「モードがない(少ない)」ことだから、ここでモードとは何かを確認しておこう。モードについて、本書独自の定義は記憶の限りされておらず、最も明確な定義はラリー・テスラーのそれを参照しているものである。曰く、モードとは、
- 一定期間持続する
- 特定のオブジェクトに関連しない
- オペレーターの入力に解釈を与える役割だけを持つ
- ユーザーインターフェースの状態のこと
である*1。このようなモードをもつ道具がモーダルな道具ということになる。「オペレーターの入力に解釈を与える役割だけを持つ」というのはややピンとこないが、ある入力が複数の意味を持ちうる道具において、それらの中のどの意味かを決定する役割をモードが担う、ということである。
ある入力が単一の意味のみを持つ道具においては、モードは必要ない。ある入力に単一の意味のみを持たせられるのであれば、入力(操作)とその結果との間に、単なる対応関係以上の関係付けを持たせることができる。ある操作である結果が起きることがユーザーにとって自明であるとき、それは「直接操作」となる。
デザインをシンプルにすると言うことは、規定された順序性や段階性をシステムから取り除き、行為の可能性を「同時」の領域にまとめるということである。同時のデザインは行為の可能性を一度に開く。ある操作がある処理のための手続き的な段階として要求されるのではなく、操作そのものがそこから得られる物とひとつになっているということだ。ハンマーを打つのと釘が打ち込まれるのが同時であるように、使用者にとって行為と成果が不可分に感じられるような直接性を作り上げるということだ。これはヒューマンインターフェースデザインの用語で「直接操作」と呼ばれる原則に通じる。(p.96)
この直接操作をソフトウェアにおいて実現しようとするときに登場するのが、アラン・ケイのいわゆる「イリュージョン」であり*2、オブジェクト指向UIということになる。オブジェクト指向UIにおいては、ユーザーのメンタルモデルを反映したオブジェクトモデリングを行い、それをインターフェースに反映する。
『オブジェクト指向UIデザイン』から『モードレスデザイン』へ
ここまでは、前著『オブジェクト指向UIデザイン』でも解説されていた事柄である。オブジェクト指向UIデザインの歴史や、それをどう実践すればいいかに興味のある人は、そちらを読めば概ねの目的は果たせるだろう。『モードレスデザイン』の特質は、それ以外の部分にある。
タスク指向UIはなぜ悪いのか。『オブジェクト指向UIデザイン』では、主に「使いやすさ」の観点で批判されていた。しかし『モードレスデザイン』でのタスク指向UI、モーダルな道具への批判は、「使いやすさ」という実用性の尺度におけるそれに留まらない。
モーダルな道具は、ユーザーがそれを使用する特定のコンテクストを固定してデザインしたときに生まれる。そのため、当初想定されていたコンテクスト以外では使いづらい。別のコンテクストでも使えるようにすると、また別のモードができ、それを繰り返していくと、どんどん道具(あるいは道具の機能)が増えて複雑になってしまう。これはユーザーにとってだけでなく、作り手にとっても問題になる。
モードは類型化され固定化されたコンテクストである。だからコンテクストの転写として道具をデザインするとモーダルになる。モーダルな道具は使用者がそれを手にする以前に型づけされている。問題は、コンテクストには際限がないのでその型はほぼ間違いなく「適合しない」ということだ。コンテクストの数だけ道具を作らなければならないのなら誰の手にも負えない。仮にそれが可能だとしても、道具を使うことの利便性より道具を選ぶことの複雑性が大きくなってしまう。(p.366)
さらに、著者によると、モーダルな道具は、ユーザーを道具に対して従属的な地位に貶め、その創造性を毀損するものだという。本書の中では、対話型のインターフェースが繰り返し批判される。
コンテクストを固定化しようとするシステムでは、ダイアログ(対話)式のインタラクションが多用される。そこには、システムからの質問に答えることで目的に対して最適な解が得られるという発想がある。しかしダイアログ式のインタラクションはコンテクストの行方をシステム側に委ねる形となるため、使用者にとってはコントロール性が低く道具性に欠けたものになる。使用者は作業を進めたければ一方的に提示されたダイアログの内容に対応しなければならない。すると仕事の主導権を持つことができなくなる。ダイアログ式のインタラクションにおいてシステム側に見受けられる人格性は、一方的にコンテクストを規定するという意味でモーダルだ。これを「人格モード」と呼んでみる。(p.366-367)
使用者をパッセンジャーとして扱い、その行為を命令のセットに還元しようとするデザインアプローチは、道具の使用を使役的なコンテクストに閉じ込める。「人格モード」もそのひとつである。しゃべる家電、人型のロボット、音声エージェント、チャット形式の生成ツールなどは、使用者を使役者とし、道具を役務者とする構図でデザインされている。(中略)使用者をパッセンジャーとして扱うデザインは、使用者を使役者にするだけでなく、使用者自身が使役されるコンテクストをも作り出す。ロボット掃除機を購入すると、部屋の中でそれがうまく動くようにむしろ人が掃除をするようになると言われる。こうした副作用は、道具の存在が人の行動に変化を与えるという意味では正当だが、機械の構造が限定的な用途に最適化されている場合、使用者は単に役務者として作業を強制されているのである。(p.420-421)
これに対して、オブジェクト指向UIにおいては、特定のコンテクストや目的と結合していないオブジェクトがユーザーに対して提示され、ユーザーは自分の関心に従って自由に操作することができる(p.253)。元来、オブジェクトには特定の目的が備わっておらず、デザイナーが特定の目的を埋め込まずとも、使用者自身がそれらをどう使うか(あるいは使わないか)を考え、決めることができるのである。特定の目的を指定されなくても我々がオブジェクトを道具として使うことができる、その在り方を「メタモード」と著者は呼ぶ(p.391)。
釘を打つという目的に適した汎用性のある形を追求すると、ハンマーができる。しかし物に目的は入らない。ハンマーをいくら分解しても釘に関する部分は現れない。ハンマーが釘を打つのに役立つのは、そこに目的が含まれているからではなく、使用者が釘を打つためにそれを使うからである。そしてハンマーが使用者に対して打ちつける行為を自然に促すのは、ハンマーと使用者との間に「何か硬いものを打ちつけることができる」というアフォーダンスが存在しているからである。つまり、ハンマーは使用者のメタモードと調和している。(p.406)
デザイナーが道具に特定のコンテクストや目的を結びつけること、すなわちモードを導入することは、元来ユーザーと世界との間で成立しているメタモードと干渉してしまう。モードを道具から取り除いていくことで、自然な在り方であるメタモードにおいてユーザーは自由に道具を使用でき、創造性を発揮することができる。ここにおいて、デザイナーの役割は、「特定の目的のために使いやすい道具を作ること」ではなく、「ユーザーが自分自身で使用するコンテクストを決められるようなオブジェクトをユーザーの前にただ提示すること」になる。
もちろんコンテクストを意識しないデザインなどないし、用途に合わない道具も無意味である。しかし、優れた道具というのは多様なコンテクストを受容するのであって、固定するのではない。真に意義深い道具は、使用者自身がその利用コンテクストを決定できるものでなければならない。(p.365)
道具とは何かの手段になるものだが、その「何か」をデザイナーが決めることは本来的にできない。デザイナーの役割は、サブジェクトを把握し、熟慮し、そこから抽出したオブジェクトを造形化して使用者の前に投げかけることだ。(p.409)
その他に興味深く読んだ箇所
以上が本書のメインメッセージだと思われるが、本書はこのメッセージの主張を論理的に順序立てて行うものではない。哲学者や思想家を含む様々な人物の議論を参照し、それらをこのメインメッセージに結びつけていくほか、このメインメッセージを伝える道すがらで、(おそらく自身の実践経験に基づいて)デザイナーの姿勢やデザインについての定説に対して批判的な眼差しを向けている。以下では、それらの中から個人的に興味深いと思った事柄をいくつか取り上げて触れていく。
デザインの「インテグリティー」
まず、デザインのインテグリティー・シンプルさについての議論を取り上げたい。この論点自体は、『オブジェクト思考UIデザイン』p.45以降でも出ていたもので、タスク指向UI vs オブジェクト指向UIという対立に直接関連するものだが、本書ではより深く論じられている。
ユーザーからの要求がそのまま機能になったような道具は、ユーザーに対して一貫性を欠いたものとして現れてしまう。そうではなく、個別の要求、個別のコンテクストを(直交に)貫く一貫したモデルを用意し、ユーザーに提示することが必要である。それによって、ユーザーにとってわかりやすく、作り手にとっても拡張しやすい道具になる。
オブジェクトを自立させ、使用方法に柔軟性を与え、プログラムに拡張性や保守性を持たせること、つまりデザインのインテグリティーを高めるためには、使用者の個別文脈的な要求よりも、イリュージョンの全一性の方が重要だ。イリュージョンの全一性とは、たとえばゼロワンインフィニティールール、レイアウトのゲシュタルト、「Object→Verb」のシンタックス、その他の視覚表現、入力ジェスチャー、フィードバック、ラベリングなどについての一貫性のことである。(p.250)
ここまでは(主張の妥当性はともかく)少なくとも本書の趣旨からすると「いい話」である。興味深いのは、著者がより「強い」(と評者には感じられる)主張をしていることである。それは、この一貫性、インテグリティーのためには、ユーザーやビジネスの要求を受け入れないことも時には必要だと、上記の引用の直後で述べている点である。
デザイナーは、その機能がそこにあれば特定の作業が効率的になるとわかっていても、それがそこにあるのは不自然だという理由で実装をオミットすることがある。デザイナーはインテグリティーを気にしている。(p.250-251)
この主張は、後の箇所ではより強く、「インターフェース自体がデザイナーの恣意を拒絶する」という形で登場する。
ヒューマンインターフェースが完全にデータバインドされて各要素が自立的に振る舞い出すと、それを作るプログラマーですら恣意的な仕様を持ち込めなくなる。ソフトウェアがバタフライ効果で満たされ勝手に内側から世界を構成する。デザインがうまくいっていると感じるのはそういう時だ。たとえば、初めてアプリケーションを開いた時にだけウェルカムメッセージを出すような仕様をデザイナーが考えても、「初めてアプリケーションを開いた時」などという条件は人間側の文脈に依存しているので、わざわざ使用履歴を記録するような仕組みを追加しない限り、それを判定する確実な手がかりはインターフェースのどこにも無い。優れたインターフェースの実装は、インターフェース自体がデザイナーの恣意性を拒絶するのである。(p.302)
ここを読んだとき、評者にはかなり強い主張のように感じられ、そのまま受け取るのは難しいように感じた。しかし改めて考えてみると、ソフトウェア開発者としてプロダクトづくりをしているなかで、「これを作ると確かにユーザーには喜ばれるが、実装・保守・運用等のコストを考えると作らない方がよい」という判断を組織・チームとして下すことはあるし、実装済みの機能を廃止することもしてきた。そうすると、デザインのインテグリティーという観点から要求を拒絶することもあるというのは自然なように感じられるようになった。ただし、ビジネス上の要求を拒絶するのであれば説得力のある形での説明が不可欠であろう。
デザインのプロセス・経験主義への批判
デザインのインテグリティーの論点にも関連するが、著者はデザインのプロセスについても批判的な目を向ける。p.61から始まる「問題の外に出る」という節では、「(問題ではなく)解決可能性の方から物事を見ること」の重要性が論じられるが、その過程では、デザイン理論における経験主義が、あくまでデザインを検証するための考え方にすぎず、デザインするにあたっては違ったものに依拠する必要があると指摘される。この点に関する著者の問題意識は、p.147付近でも改めて表明される。
実際のところ、経験豊かなデザイナーは、特別な調査などしなくてもかなりのものが作れる。理論家はデザインの目的合理性は事前調査の詳細度に比例すると考える。(中略)一方、自分で手を動かすことのない理論家はプロセスを偏重する。要求の特定が在るべき姿を導出すると言う因果論的思考に囚われている。自分の中の経験則に実感や成功体験がないから、外に解決策があるように誤解してしまう。パズルの答えは視覚にあると思い込み、目をつぶってできるはずがないと考えてしまう。そして、目を開けてさえいれば自分でもパズルが解けると勘違いしてしまうのである。プロは絵を見てパズルを解くわけではない。素材同士の位相的な接続とシステム全体の構造を直観的に整合させているのである。デザインにおいて重要なのは、暗黙知としての整合力であり、使用者が自らの要求や行動を自然に合わせることができるようなインテグリティー(純粋性、完全性)を見つける経験的な洞察だ。(p.148-149)
評者はデザインについてはあまり詳しくないが、デザインに関する書籍や記事を読むことはあり、その中ではかなり経験主義が重視されていると感じるし、それを組み込んだプロセスが紹介されていることも多いのではないかと感じていた。そのため、本書のこのような指摘は非常に新鮮に映った。最終盤のp.550においては、プロセスに強い関心を持つデザイナーに対する哀れみのようなものまで呈されている。
多くのデザイナーの関心が、プロセスや体制といった「作り方」に多く向けられるのは、つまらないものばかり作らされているからかもしれない。おもしろいものはどんな風に作ってもおもしろい。おもしろいものを作る時、関心は「作るもの」自体に向けられる。作ることが楽しいのは、それが決められた的への適合ではなく、的そのものを描く行為だからである。(p.550)
前半で見たように、本書では「モードレスデザインがユーザーの創造性を解放する」ということが主張されている。しかし同時に、著者はデザインをする者 = デザイナー自身にとっても、モードレスデザインは福音になるという。モードレスデザインによって、デザインは「おもしろく」、「自己目的的(p.400)」な行為になるというのである。
『モードレスデザイン』は、現代において一般的に肯定されているデザイン行為そのものへの懐疑と痛烈なカウンターである。ほとんどのデザイナーにとってこの本は自身の存在を揺るがす大事件になるはずだ。これを読んだデザイナーは衝撃を受ける。自分の仕事について全く違う観点を得ることになる。
— Manabu Ueno (@manabuueno) 2025年4月2日
冒頭で記載したように、評者はデザイナーではないし、デザインについて特別造詣が深いわけでもないので、膝を打つということも、首を傾げるということもない。本書のこういったメッセージは、デザイナーとしてデザインを日々学び、実践している人々には、どのように映るのだろうか。
跋
評者は、著者の発信を以前から追っていたので、本書の出版が発表されたときから読むことを決めていたのだが、『モードレスデザイン 意味空間の創造』というタイトルから実用書を想像していたため、正直にいえば驚きながら読んでいた。著者自身、
『モードレスデザイン』はデザイン書だが人文系を読み慣れていない人には観念的な哲学書に見えるかもしれない。けれど読み進めてもらえばこれはむしろ世界中に張り巡らされた暗号の謎を追っていくルポルタージュのようなものだとわかるだろう。やがて物語は無数の伏線を回収して大団円を迎える。
— Manabu Ueno (@manabuueno) 2025年4月2日
と述べており、面食らう読者も多いのではないかと感じた。実用的な関心事で「モードレスデザイン」に興味がある人は、まずは『オブジェクト指向UIデザイン』の方を手に取ることをおすすめしておきたい。
「モード」の批判、モードレスデザインの推奨は、著者独自のものではないし、著者も独自性を主張していない。本書で言及されている限りにおいても、ラリー・テスラーや『ヒューメイン・インタフェース』のジェフ・ラスキンはモードに対して批判的であるし、著者が翻訳に携わった『ABOUT FACE』のアラン・クーパーが「モードが本質的に悪いということはない*3」と述べているのも、モードというものへの批判が従来から存在していることの証左である。
本書の独自性は、デザイン分野への知識の乏しい評者が本書を読んで理解した限りにおいては、おそらくモードレスデザインをより広い脈絡に置いてその価値を説いたところにあるのだろう。その試みが成功しているのかというと、完全に成功しているわけではないと評者には感じられるーー参照している哲学・思想的な議論とデザインの話との接続が飛躍に感じられる箇所が多くあったーーが、この点については評者はややバイアスがかかっている自覚がある*4ので、他の読者の感想をぜひ聞いてみたい。
とはいえ、前述のような著者自身の経験に基づく議論は非常に面白く読んだし、参照されている議論に興味を持てるものも少なからずあったので、決して退屈な本ではなく、読んで良かったとは思っている。4/21に発刊記念イベントがあるので、そちらに参加して話を聞いてまた違った感想を持つようになるかもしれない。
どうして今更こんなことに……(『モードレスデザイン』のせい) pic.twitter.com/LFdryCdJT4
— こま (@koma_koma_d) 2025年4月15日
2025/4/21 追記
出版記念イベントに参加してきたので、感想をnoteに書いた。 参加後に改めてこの書評を見返すと、著者や編集者の意図には寄り添えていない書評になってしまっていたのではないかと思うが、間違ったことを書いたわけではないし、これから書籍を手に取ろうかと考えている人には一定参考になるものだと思っているので、これはこれとして残しておくことにする。