こまぶろ

技術のこととか仕事のこととか。

改善のためには、組織や上司に心から感謝するネタを探すことが重要かもしれない

はじめに

相も変わらず、雑記である。言いたいことは、タイトルの通りである。内容は、職場をより良くしたいという思いを持った人間の反省である。全編通して自分語りの色合いが濃いので、職場改善に興味のある方でもこの記事は読みづらいと思う。人に伝える価値のあるだけの事柄が自分語りに含まれていると信じるからこそ公開するのであるが、最低限の仕事として、職場の改善に関心のある方には下記の2冊の本を勧めておきたい。

カイゼン・ジャーニー たった1人からはじめて、「越境」するチームをつくるまで

カイゼン・ジャーニー たった1人からはじめて、「越境」するチームをつくるまで

Fearless Change アジャイルに効く アイデアを組織に広めるための48のパターン

Fearless Change アジャイルに効く アイデアを組織に広めるための48のパターン

仕事と愚痴

気付いたときには、愚痴を言うようになってしまっていた。

学生時代の主たる関心事は勉強・研究で、人のせいにできるものではなかった。悩みが無かったということでは全くないが、「研究テーマが定まらない」とか「思ったように読書が進まない」とか、直面する問題は専ら自分のものだった。だから、報道などで接する政治や経済の在り方に対して不満を口にすることはあっても、身の回りの生活においては愚痴と呼べるようなものを言っていた記憶がない*1

仕事に就くと、同僚や上司、経営陣が、自分の生活の決して小さくない範囲に対して影響力を持つようになる。自分の意思で変えられるのは自分の行動だけとはいえ、「こうしてくれたらいいのに」とか「あれは止めてほしいな」といった期待・願望が生まれ、それに沿った行動を人がしてくれるよう働きかける、ということが多くなった。働きかけがうまくいき、期待・願望が叶うこともないわけではない。しかし、ほとんどの場合で人は自分の思い通りには動いてくれず、裏切られた期待と願望は、愚痴という形で酒の席やTwitterで発せられることになる。

なお、自分には、愚痴を単なる個人的な不満として表現しない傾向がある。たとえ個人的な不満であっても、何らかの「べき論」として、あたかも組織全体や他のメンバーのためになる提言かのように表現することが多い。本気で正論だと思って言っていることもあるし*2、内心単なる個人的な不満の表明だと思っていることもある。前回の記事は、後者の種の愚痴から何かを引き出そうという試みだった。

ky-yk-d.hatenablog.com

他人への期待と「伝わらなさ」

会社の中にあって、僕はしばしば組織を良くしたいという思いを多く言語で表現している存在だ。組織を良くしたいという思いを持っている人は他にもたくさんいるだろうし、その中には僕よりも強い思いを持っている人もいるだろうが、僕ほどにそれを言語で表現する人はいない。「それで、あなたは何をしている人なんですか?」という問いを投げかけられた時に答えに窮することにならないよう、常々自らを戒める一方で、声を出すことにも意味はあると思って問題提起や改善提案を口にしてきた。

他人に期待をせず、自分だけの力で改善できれば最高だ、と思う。しかしこの1年間で強く感じたのは、自分一人で状況を突破する力が全く足りないということだ。例えば、テストエビデンスExcelスクショ生活を送っていてウンザリしていたときに、自動化のツールを導入できればと思いはしても、自分で行動することはしなかった*3。また、プロジェクトの要件定義がうまく進んでいかないときには、会議のファシリテートや「こういうのを作ったらいいんじゃないか」という資料の作成でなんとか打開しようとしたが、芳しい成果を上げることはできなかった。このような無力感と、「周りを巻き込んだ方が効果出るじゃん」という尤もらしい理由から、「こうしていきませんか?」型の提案をしてきた。

しかし、このような提案が効果を上げることはほぼない。自分で考えたり本を読んだりして、自分としては「良い線いっている」と思う提案をしていても、「やりたければ自分でやりなよ」とか「それは単なる君の趣味じゃないの?」と言われるのが関の山で、スルーされたりそもそも趣旨が伝わらなかったりするのがほとんどだった。この辺りについては、以前の記事で反省めいたことを書いている。

ky-yk-d.hatenablog.com

現状を否定せずに感謝しよう

上の記事では論点にしていなかったのだが、そもそも改善提案というのは現状の否定を本質的に含んでいる。より良くしていこうという運動は、現状に甘んじないことから始まる。現状と対立する理想を実現しようとする革命に限らず、改善という営みには現状の否定の要素が含まれている。そして、新参者が最も強烈に改善を謳う場合には、それは単なる現状の否定に留まらず、「現状を作り出してきた人々」の否定になりやすい。そうなれば、反発を招かない方が不自然だ。

現状に甘んじてはいけないと思う。かといって現状を否定すると反発を受けやすい。であれば、どうすればいいのか。この課題に対して、先日、急に腑に落ちた回答を得ることができた。それは、「感謝しよう」ということだ。

感謝かよ、と我ながら思う。おっさんが若手に対してする説教みたいだ。新人の時に外部研修で聴かされた「とにかくまず感謝しよう」という話に猛烈に反発していた人間が1年も経つと感謝を語り始めるのだ。会社とはなんと恐ろしい場所だろうか*4

閑話休題。ここで僕は、「全てに感謝しろ」とか、そういうブラックなことが言いたいのではない。体罰に代表されるパワハラに「自分のためにやってくれている」と感謝して、それらを助長するような真似はしたくない。また、どんな組織・上司にも感謝すべき点があるという強い主張をするつもりもない。感謝すべきところよりも憎むべきところの方が多い場合に「それでも感謝しろ」とは言わない。

僕が思うのは、「物事を改善しようと思うと悪いところにばかり目が行きがちだけど、感謝するのも良いんじゃないの」ということである。なぜ感謝が良いのか。

なぜ感謝が良いのか

感謝が良いという主張をつらつら述べる前に、断っておきたいことがある。それは、

  • 以下で述べるような意味が感謝にあるとすれば、その感謝は効用を当てにした打算的なものではなく、心からの感謝であるということ
  • したがって、この記事が伝えようとするところは、心から感謝できるネタを探すような姿勢が重要ということ

だ。自己啓発書っぽいのは認める。でもそういうことだと思う。

感謝は良いところに着目する

さて、では感謝にはどのような意味があるのか。第一に、感謝というのは良いところに着目する。

悪いところに対処するだけが改善ではなく、良いところを伸ばすのも改善になる。これは、「ふりかえりの伝道師」こと森さんがKPTのKeepについて仰っていることにも通ずる。

感謝は、自分の行動が「良かった」というフィードバックになる。そうすれば、当人がその行動を強化したり、周囲がその人を肯定的に評価したり、あるいは真似をするようになるかもしれない。広げたい・増やしたい行動に感謝をすることは、改善にも繋がる可能性があるのだ*5

感謝は「確か」である

第二に、感謝の元となる「ありがたい」という経験は確かなものであり、それゆえに「評価」よりも相手に伝わるのではないか。

誰かに感謝するというのは、気持ちの表現だ。相手の行動が、自分にとって有り難かったからこそ、人は感謝を伝える。ここで重要なのは、(お世辞の感謝である場合を除けば)「ありがたい」という気持ち自体が現実のものであるということだ。これは、何らかの基準(例えば、書籍で主張されている理論)に即して人の行動を「良かった」と評価する場合と対比することができる。

評価の基準が不適切な場合、相手がそれを共有していない場合には、評価は意味を失ってしまう。感謝の場合、これに対して、感謝の対象となった行動がたとえ長期的に悪い結果を招いたとしても、その瞬間の「ありがたい」という主観的経験は現実である。したがって、受け手にとっては評価より感謝の方が「確か」なものであり、より伝わりやすいと言えるのではないだろうか。

目上の人間に対して不当なのではないか

第三に、これは上司との関係という個人的な文脈の話だが、部下は上司に対して人としてあまりに不当であり、それを是正するためにも感謝することが必要なのではないか。

上司や経営陣というのは、お客さんから感謝されることはあっても、部下・社員から感謝されることは稀だと思う。少なくとも僕はあまり感謝を表現したことがない。酒を奢ってもらったときや書類にハンコを押してもらったときなどに「ありがとうございます」と言うことはあるけれど、どれもありきたりな場面で、いまいち心を込めた感謝というのとは違うだろう。

『あなたの話はなぜ「通じない」のか』に「上司の受信箱に『共感』(のメッセージ)は少ない」という話が出ていたが、立場が下の人間は、上に対して過度に批判的であるか迎合的である場合がほとんどで、まともな人間関係を築けていないのではないのかもしれない。そういう意味で、感謝をすることは、一人の人間に対峙する一人の人間として必要かな、と思った。

おわりに

現状に甘んじない態度が個人を成長させるし、社会全体を進歩させてきた。しかし一方で、理想と現実とのギャップは人を苦しめる。理想の自分と現実の自分、理想の社会と現実の社会とのギャップは、希望と同じ分だけの絶望を生み出す(突然のまどマギ感)。

今回の記事では、現状の一部分を肯定する方向に舵を切った。本文では書かなかったけれど、現状を肯定することは、精神衛生上、一定の意味がある。現状を否定し理想を求める営みは疲れるものだからだ。しかし、現実の側に理想を近づけていくことは、成長や進歩という観点ではマイナスの効果を持つ場合もある。

希望を持って前向きに歩んでいくということと、現状を受け入れてストレスなく暮らすということは、どのように両立されうるのだろうか。

*1:とはいうものの、学生時代の友人は、僕について違う記憶を持っているかもしれない。人はとかく過去を記憶したいようにに記憶するものだ。

*2:この場合は主観的には愚痴ではないが、客観的には愚痴に過ぎない。

*3:これは技術に対する思いの弱さが現れた事例とも言える。

*4:というのは冗談としても、少しは大人になったのかもしれない。

*5:繰り返しになるが、改善に繋がることを期待しすぎてはいけない。