こまぶろ

技術のこととか仕事のこととか。

観察者的発話についての弁明と反省

以前、下のようなツイートをした。

これは愚痴である。自らの発話に否定的な評価を下された、若者の愚痴である。そう思ってもらって差し支えない。せっかく吐いた愚痴なので、愚痴ではない何かに昇華させるのが本稿の課題である。

仕事における発話に対しては、ベースとして否定的な評価が下される。それは、発話者と受け手の時間を消費するからだ。いわゆる「ほうれんそう」が許されるのは、それが業務に必要な発話だからである。もし、自らの発話を否定的に評価されないようにしたいのであれば、発話をしようとする際に、その発話がどのような価値を持つのかを考えておくべきだろう。では、発話の価値をどのように考えればよいだろうか。

ボールを渡す発話、渡さない発話

ここで、仕事における発話を、2種類に区別してみたい。「相手にボールを渡す発話」と、「自分がボールを持ち続ける発話」である。前者は、発話の主題について次の行動を相手に期待するものであり、後者は、発話に対する相手の反応を受けて、次の行動を自分が取ろうとするものである。「ほうれんそう」で言えば、「ほうれん」は「相手にボールを渡す発話」であり、「そう」は「自分がボールを持ち続ける発話」である。

この2種類の発話のうち、発話の価値に疑問が持たれやすいのは、「自分がボールを持ち続ける発話」である。「相手にボールを渡す発話」は、そこで伝達された情報がなかったとしても、「相手にボールを渡す」という意味を依然として有する。これに対し、「自分がボールを持ち続ける発話」は、そこで交換された情報に価値が認められない場合、発話自体に価値がなかったということになりやすい*1

「自分がボールを持ち続ける発話」には、質問や相談が含まれる。発話をすることで、相手の反応を引き出すのがこの種の発話の意義である。質問や相談において期待される反応は、命題という形で示される。「会議はいつからですか」という質問は「会議は15時からだ」という事実命題を、「資料は何部刷りますか」という相談は「資料は10部刷るべきだ」という当為命題を反応としてそれぞれ期待している。

ここで発話者が発話をするのは、相手が自分にはない知識や判断能力*2を持っていると考えているからである。自分の知っていること・自分で判断できることについてわざわざ他者に発話するのは、時間の無駄だと評価される。「何でもかんでも人に聞くんじゃない」と誰かを叱咤する人は、その誰かが発話なしに適切な命題に辿り着くことを期待しており、そしてそれが可能だと考えている(そして、その誰か自身は不可能あるいは「したくない」と考えている)。

質問や相談を受け、命題を提示した人は、自らが提示した命題を当初の発話者(質問・相談を持ち込んだ人)が受け入れることを通常は想定する。発話に対して「会議は15時からだ」「資料は10部刷るべきだ」と応答したのに、発話者が15時になっても現れなかったり資料を5部しか刷ってこなかったりすれば、「なぜそうなる」となる。

しかし、発話者が相手の提示する命題(考え、と言い換えていい)にそのまま従わない場合もある。自分の次の行動を決定するための判断材料のひとつ(one of them)として、相手の考えを聴くというケースだ。その発話者の意図は明示されたり、されなかったりする。明示されている場合はよいが、相手に意図が伝わっていなかった場合は、「俺に聞いた意味はあったのか」と、発話の意義は小さく評価されるおそれがある。

発話によって得られる判断材料

ここでいう「自分がボールを持ち続ける発話」は、「判断材料を得るための発話」に他ならない。相手の応答が命題として示され、それを直接的・決定的な判断材料として発話者が受け取るケースは、このうちの最も「意味がわかりやすい」ものである。これを1つの極として、応答の判断材料としての活かし方が間接的になったりone of them的になったりすると、その発話は「意味がわかりにくい」ものになってくる。

ただし、相手や第三者から見て「今の話に意味あった?」と考えられてしまう発話には、判断材料を得るための発話以外もある。代表的なのは、単なる気晴らし、愚痴という、発話者の感情の整理に資する(だけの)ものだろう。この種の発話にも「感情の整理」という意味はあるので、「常識の範囲内」であれば許容される場合も多いだろう。ただし、仕事における発話としてはあくまで傍流であると言ってよいと思う。また、別の種類の発話の価値として、「オートクライン」と呼ばれる、「自らの発話を聴くことによって気付く」現象が生じることもあるが、これもまた傍流の発話である。

coach.co.jp

話を「判断材料を得るための発話」に戻す。感情を整理するのでも、オートクラインを起こすのでもなく、はたまた相手に情報を提示してボールを渡すのでもない発話は、「判断材料を得るための発話」である。判断材料は、相手が応答としてする発言に限られないし、発言の文字通りの意味にも限られない。この種の発話は「意味がわかりにくい」ものになるが、確かに存在し、意味を持っている。

発言以外の判断材料としては、身振り手振りを含む相手の意識的な行動や、口ごもりや表情といった無意識的な行動がある。当初の発話者は応答としてのこれらを観察することによって、判断材料とすることができる。例を挙げて説明する必要はないだろう。

また、相手の発言を判断材料とするのにも、その文字通りの意味(代表的には命題として表現される内容)を直接に利用するのでない場合もある。たとえば、複数の切り口やレベルでの応答が可能な発話に対して、どの切り口・レベルで応答してきたかが、相手の思考の枠組みや前提知識の量、関心の所在を表現する場合などである。期待していた応答とは少しズレた発言が返ってきたことをもって「刺さらなかったな」と判断する場合もこれだ。雑談の最中に次の話題を選択しようとするときも、「私は別の話題で話したいです」という発言から文字通りの意味を受け取って話題を変えることは稀で、相手の発言から思考や感情を推察して判断をしている。

ソフトウェア開発における発話

ソフトウェア開発の現場における発話には、技術的なものが多く含まれている。技術的な質問や相談は、「自分がボールを持ち続ける発話」のうち、相手の発言の文字通りの意味を判断材料として用いるものになりやすいだろう。コードの書き方やツールの使い方で質問をするときや、設計にアドバイスやレビューをもらうときなどは、相手の発言を(100%受け入れるとは限らないが)意味的にはそのまま受け取ることになる。自分だけでは判断できない事柄に対処するにあたって、判断をより適切なものにするための材料を他人に期待し、質問や相談をする。

しかし、「意味がわかりにくい」が「判断材料を得るための」発話が必要な場面も、ソフトウェア開発においてはあるのではないか。いや、率直に言おう。僕自身が「意味がわかりにくい」が「判断材料を得るための」発話をよくしている自覚があるので、その弁明および反省を試みたい。個人の愚痴の域を結局出ないかもしれないし、自分なりに何か気付きがあるかもしれないし、事によると誰かの思考に役立つかもしれない。

「意味がわかりにくい」が「判断材料を得るための」発話、といちいち書くのは面倒なので、これを「観察者的発話」と呼ぶことにする。質問や相談をするときの発話者の態度が当事者的であるのに対し、この種の発話をする発話者は観察者的だ、と言えるのではないかということからの表現である。相手の応答にそのまま従う、それをそのまま受け入れる、のではなく、一旦突き放して見る姿勢である。


(個人的反省はじめ)

個人的反省として、自分の観察者的な態度が悪い意味での「目線の高さ」を感じさせてしまっているということと、観察者的に振舞いながらもその観察が的を射たものになっていない(精度が低い、客観的でない)ということを考えた。組織の1メンバーとして根を下ろしながら、組織を客観的に認識し、的確な解決策を打っていく、その過程で周囲とも連携する、ということの難しさを日々感じている。

(個人的反省終わり)


ソフトウェア開発において観察者的発話が必要になるのはなぜか。それは我々が、技術的な問題だけでなく、社会学的な問題にも直面するからではないだろうか。

実際のところ、ソフトウエア開発上の問題の多くは、技術的というより社会学的なものである。
  ー『ピープルウエア』4頁

このデマルコの言葉を真に受けることの是非については後述するが、ソフトウェア開発において社会学的な問題が存在することは間違いない。ここに、観察者的発話が効果的になる点が存すると思う。

社会学的な問題と観察者的発話

社会学的な問題とは、人の行為それ自体によって構成される問題だと言うことができるだろう。したがって、その問題の解決には行為を変化させることが必要になるし、その前提となる問題の正確な認識は人の行為の観察から得られる。観察の手法には、メトリクスを取るといった定量的な手法もありうるが、実際の行為を観察するという定性的な手法もありうる*3

行為の観察は、介入なしに行うこともできる。会議の進行を黙って見ているだけでも、得られる情報はある。組織内でやり取りされるメールやSlackのメッセージ、ドキュメントやコードなどからも、情報を得ることができる。このような所与の素材から情報を獲得し、解釈し、状況を把握し、問題を立てられる場合もあるし、それが得意な人もいるだろう。

しかしながら、所与の素材から情報を十分に獲得できないときには、観察者自身が人や組織に対して働きかけを行い、何らかの反応を引き出して新たな素材とすることもできる。「観察者的発話」は、その一形態に他ならない。

質問や相談といった「当事者的発話」においては、発話者は主題・疑問点を提示することで、期待する回答へ相手を導く。観察者的発話においては、フォーカスの絞られた具体的な主題を提示することもできるし、様々な反応の仕方が可能な表現を投げかけることもできる。 反応の活かし方は無限定なので、発話にも定型はない。

では、観察者的発話は「何でもあり」なのだろうか。おそらく、そうではない。仮説を立てた上で発話することが、観察者的発話においては特に重要になるだろう。相手の反応をそのまま受け取ればよい当事者的発話であれば、発話者自身が予断を持たないことが活きる場合もある。

しかし、目的とする判断と、その材料とする相手の反応との間に距離があり、それを発話者の主体的解釈によって埋めなければならない観察者的発話においては、判断したい論点を明確に意識し、そのためにどのような素材があればどのように解釈でき、判断に活かすことができるかを検討し、必要十分な幅に相手の反応を規定する発話を行うことが、「無駄撃ち」を減らすためには必要だろう。


(個人的反省はじめ)

個人的反省としては、自分の発話で観察者的発話と位置づけることが可能なものについても、仮説を立てるということが不十分なものが多かったのではないかということがある。自分が新参者で、なるべく早く各チームメンバーの考え方を知りたいと思うあまり、とにかく材料を引き出したいと思ってしまった。発話をする前に、もっと介入なしの観察をしておくと、効果的な観察者的発話をすることができたのではないかと、思う。

どうも、観察というのは得意ではないという思いもあり、冒頭のツイートにはその甘えも出ていると思わされる。色々と理屈を述べることはできるが、自らの甘えに過ぎないのではないかとか、いやそれでも間違ったことは言っていないとか、そういうことをぐるぐる考えている。

(個人的反省おわり)


ソフトウェア開発における問題の見極め

最後に、デマルコの言葉を額面通り受け取って良いものか、について書いておきたい。

ソフトウェア開発がうまくいっていないとき、対処すべき問題として技術的なものを据えるか社会学的なものを据えるかは、難しい判断だ。事実として、最も効果的な問題の立て方が存在するという前提に立つとしても、それを採用するのは困難だし、そもそも「最も効果的な問題の立て方をした」ということを証明するのは不可能だ。

『エラスティックリーダーシップ』に載っている伊藤直也さんのエッセイ「大事な問題にフォーカスする」で、「チームが良くなれば事業やプロダクトが良くなるという思い込み」という話がされている。この思い込みは、「チームが良くなって欲しい」という願望から生じがちで、僕自身がしばしば陥りそうになる。だから、この伊藤さんのエッセイは僕にとって折に触れて想起すべきものとなっている。

luccafort.hatenablog.com

思い込みでチーム以外の問題が見えなくなることは避けなければならない。願望で現実を見る眼を曇らせることへの戒めは、重要だ。それは、以前ブログにも書いたことだ。しかし、やっぱり問題はチームだった、ということもある。デマルコの言葉は「技術的な問題だけではない」というくらいの意味で、伊藤直也さんの言葉は「チームの問題だけではない」と、眼を開かせる意義を持つのは確かだが、本当の問題を見極める方法を教えてくれるものではないのだと思う。

ky-yk-d.hatenablog.com

ピープルウエア 第3版

ピープルウエア 第3版

エラスティックリーダーシップ ―自己組織化チームの育て方

エラスティックリーダーシップ ―自己組織化チームの育て方

*1:ストレスの発散になるなどの意義はここでは度外視する。

*2:ここでいう能力には権限を含める。

*3:僕は一応社会科学畑の人間だが、法律学系なのでこの辺はそれほど詳しくないということは断っておきたい。