こまどブログ

技術のこととか仕事のこととか。

技術者のアウトプットにおける「エモさ」とは何か

ゲストで出演させてもらった「#成し遂げたいam」のep.8が公開された。前後編に分けて収録したうちの後編である。なお、前編が公開されたときに記事を一本書いているので、ポッドキャスト収録ということについてはそちらもご覧いただきたい。

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後半では、「言葉にこだわる」ということについて喋らせてもらった。意味が曖昧であることが問題になる例として「技術力」を、曖昧さに加えて価値判断が込められていることが問題になる例として「レガシー」をそれぞれ挙げ、適切な言語表現を利用することが思考・コミュニケーションの両面において重要なのではないか、ということを話した。

ep.8の後半*1では、技術者のアウトプット*2について「エモい」という表現が使われるケースについて話している。今回も公開を前にして聴き直させてもらったのだが、「エモ」については言葉足らずな部分があったと思われたので、補足としてこの記事を書くことにした。以下、放送の中で「エモい」という言葉に与えている3種類の意味について記述する。

コンピュータ領域の知見の欠如としての「エモさ」

会話の最初の方では、「技術的な」の対義語として、「技術的でない」という欠如した状態について、「エモい」という表現が使われている(ように思われる)ケースの話をしている。

ここでは、「技術的」とは何かということ自体が問題になるのだが、プロジェクトマネジメントに関わる事柄などは一旦除外して、「コンピュータの動作に関わる事柄」、つまりハードウェアあるいはソフトウェアに関する知識が含まれていることを「技術的」と表現しているものとして理解してもらえばいい。

「エモい」をこのような意味で捉えることは、語の字面から離れているので、あまり好ましくないと思う。同じような文脈で、「ポエム」という言葉が使われることもあるが、これも詩という文学ジャンルに対する理解および敬意を欠いたものであり、適切ではない。

では、「エモい」の語用から離れて、このような意味での「エモい」アウトプットは、どのような意義を持つ、あるいは持たないのであろうか。まず、読み手にとっては、もし技術的な内容を求めているのであれば、読まなければいいのであり、特定の読み手にとって無益であることこそあれ有害であることはないと思われる。

ただし、Qiitaやはてなブックマークの「テクノロジー」カテゴリのランキングが非技術的な内容のもので埋められてしまうとすれば、それは本来の情報収拾を妨げる害をもたらす。この点については、書き手の側に一定の配慮が求められる場面があることも否定しない*3。最終的にはサービスの運営主体による判断次第ではあるが、Qiitaでは、

プログラミング以外の内容は投稿しない

と、コミュニティガイドラインに明記されており、ガイドラインやそれを踏まえた利用者同士の議論を参照しつつ、書き手が自主的に判断することが求められている。

一方、書き手にとってはそれぞれの記事をどのような目的で書くのかはあまりに人それぞれであるため、一概には言えない。もし、アウトプットが転職に向けたプログラミングスキルのアピールが目的であれば、「非技術的」なものはあまり有効ではないであろう。対して、このブログがそうであるように、目的が考えの整理であれば、「非技術的」なものもまた有意義でありうる。いずれにせよ、目的に応じて合理的な手段が取れているかという判断を各自がするほかない。

読み手の感情を動かすものとしての「エモさ」

2番目の意味として、読み手の感情を動かすものとして「エモい」という言葉を用いた。これは、『カイゼン・ジャーニー』について以下のように述べている場面での用法だ。

いい意味で「エモい」本であると同時に、それだけでは終わらない何かを持っている

カイゼン・ジャーニー たった1人からはじめて、「越境」するチームをつくるまで

カイゼン・ジャーニー たった1人からはじめて、「越境」するチームをつくるまで

ここでの「エモい」は、「コンピュータの動作に関わる事柄の欠如」ではなく、「感情を動かす要素の具備」を表現している。この意味が、音楽の文脈で使われていた本来の意味にも、emotionalという英語の原義にも忠実であり、適切であると思われる。なお、第一の意味での「エモい」と第二の意味での「エモい」は必ずしも一致しない。一冊の本の中に、コンピュータの動作に関わる知識と、読み手の感情を揺さぶる内容がともに含まれているということはありうる。

この種の「エモい」アウトプットが読み手に対して持つ意義については、放送の中で述べたとおりだ。ソフトウェア開発は簡単でないし、ビジネスとしてのシビアな側面も有している。また、組織の中で仕事として行われる限り、そこでの人間関係によってストレスが生じることもある。そのような苦しさを伴うソフトウェア開発という営みにエネルギーを持って向き合っていくために、この種の「エモさ」が助けになることはあるだろう。書き手にとっても、自分のアウトプットに対して寄せられる共感は糧になるものだ。

一方で、放送の中で少し言及したように、「頑張れる気はしたのに現実を変える術は得られなかった」ということになると、主観的な苦しさが紛れるだけで、開発の現場は前進しない。むしろ主観的な苦しさを紛らわすことによって実際の問題の解決が遅れるようなケースもあるのではないか。Show Notes にも記載してもらった以下のツイートはこのような考えを提示したものだった。

「現実と格闘するための武器となる知恵」は、必ずしも「コンピュータの動作に関わる」という意味での技術である必要はない。ソフトウェア開発の苦しさを生み出す現象が、コミュニケーションや見える化、タスク管理などによっても解決されうるというのは事実だろう。ただし、そのような「非技術的」アプローチが問題を解決する最良の手段であるとは限らないということは肝に銘じておかなければならない。伊藤直也さんの大好きな言葉を引用しておく*4

エラスティックリーダーシップ ―自己組織化チームの育て方

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感情に訴えて説得することとしての「エモさ」

放送の中で用いている「エモい」の第三の意味は、「説得力を読み手の感情に訴えることによって得ようとする」ということであり、僕が独自に定義したものだ。このような「エモい」の定義は、僕の課題意識に密接に関わっている。

僕のブログを読んで、揶揄する意図を込めずに「エモい」という感想をくれる人がいる。一方で、「エモい記事ばかり書いていてはいけないよ」と諭してくれる人がいる。恐らく前者の「エモい」はこの記事における第二の意義に近く、後者の「エモい」は第一の意義で用いられているのだと理解している。いずれも、ありがたいフィードバックだ。

先に述べたように、技術者としてのアウトプットで「非技術的」なものがどれだけ有意義なのか、あるいはその執筆に費やした時間で「技術的」なものに取り組んだ方が有意義なのではないかという疑念は常にある。上記の「エモい記事ばかり……」という問題提起には確固たる態度決定をいまだに行えていないのだが、現状の自分の姿勢は、「非技術的なアウトプットにも書き手である自分にとっての意義がある」というものだ。でなければこんな記事は書かないし、ポッドキャストにも出ない。

第一の意味での「エモい」記事を書くことに対して、自分は抵抗はない*5。また、第二の意義での「エモい」記事については、あえて書こうというつもりはないが、読み手が「エモい」と感じるのであればそれは止めない。そう受け取られることにも抵抗はない。いずれの意味においても、「エモい」という言葉はあまり大きな意味を自分に持たない。

もちろん、「エモい」という言葉を使わない、無視するということもできる。しかしながら、「エモい」という言葉があまり意味を明確化されずに、しばしば揶揄のために用いられていることに対するささやかな抵抗を試みたい。この言葉を、単なる揶揄ではなく、何かしらの問題を適切に言い当てるものとして定義し直したいという欲望を持った。

そういう訳で考え付いたのが、「説得力を読み手の感情に訴えることによって得ようとする」という「エモさ」の定式化だった。この意味の否定的な評価は、自身の過去の記事について自ら下しているものでもあったし、自分以外の記事や各種の発言についても感じる部分があったものだ。「エモい」という言葉で言い表すことで、取り組むべき問題としてより強く意識できるのではないかと考えた。

この定義は、まだ練る余地のあるものだろう。感情に訴える説得とは何なのか。そもそも感情に訴えない説得というのがありうるのか。いまいち明確でない。「伝われ」という思いを持っているのも正直なところであり、「エモい」の定義自体がまだ「エモい」ものになっている。しかし、「そこに何かしら問題がありそうである」ということを指摘するのには十分に意味のあるものなのではないだろうか。

おわりに

以上、放送の中で用いている「エモい」の3つの意味について、補足的な説明を試みた。第一の「非技術的」という意味は、その過度の広範さを理由として自分としては使いたくないものである。第二の「読み手の感情を動かす」という意味は、最も字面や語源に忠実であり、この意味で使うことは今後もあるだろう。第三の「説得力を読み手の感情に訴えることによって得ようとする」という意味は、自分自身で持っていた課題意識のために「エモい」という言葉を転用したものであり、放送でも述べたようにこの種の「エモさ」はブログから減らしていきたいと考えている。

「説得力を読み手の感情に訴えることによって得ようとする」ということを避けようとするとき、自らを戒めなければならないと思っていることがある。それは、科学的な手続きで得られた根拠をもっと重視すべきだということだ。言語や論理ということに愛着を持つ一方で、自分はあまり実証に対して関心を持っていないという自覚がある。科学的な根拠に裏付けられた主張のみに価値があるという立場は採らないが、科学的な根拠の必要な場面で印象論を述べてしまうようなことは避けなければならない。印象論はまさしく第三の意味での「エモい」ものに他ならないのだ。

*1:28分頃〜。

*2:以下では、記述の冗長さを避けるため、断りがない限りは、アウトプットの代表として、ブログの記事を前提とした場合の表現を用いる。つまり、アウトプットの出し手は「書き手」と、受け手は「読み手」と記述する。これは、あくまで便宜上のものであり、口頭発表やポッドキャストなど別の媒体でのアウトプットを言及の対象から除外することを意味しない。

*3:もっとも、はてなブックマークの場合は、アウトプットの媒体に依らずに勝手にカテゴライズ、ランキング掲載されるので難しい。

*4:伊藤直也「大事な問題にフォーカスする」(『エラスティックリーダーシップ』所収より。

*5:ただし、この意味で「エモい」という言葉を用いることには反対である。