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リチャード・ニクソン『指導者とは』を読んだ

リチャード・ニクソンの『指導者とは』の読書メモ。自らもアメリカ合衆国の大統領という「指導者」でありながら、近い時代の偉大な指導者たちのエピソードと自分自身の指導者論をまとめたもの。20世紀の世界史の主人公たちの伝記としても手軽で面白い。

指導者とは (文春学藝ライブラリー)

指導者とは (文春学藝ライブラリー)

指導者の逸話

チャーチル

チャーチルは少年のころ、友達と人生の意義を議論していて、人間はすべて虫ケラだという結論に達したことがある。だが、そこはさすがにチャーチルで、彼はこう言った。『僕たちは、みんな虫だ。しかし、僕だけは……蛍だと思うんだ』(18)

この後のマッカーサーについての逸話にも出てくるが、指導者たろうとすれば自らに自信を持つことが必要だというのがニクソンの洞察、あるいは信念であるように思われる。それにしても、この発言をしてチャーチルは仲間内で大丈夫だったのだろうか。

マッカーサー

マッカーサーは、常に周囲とは異なる人間であらねばならないと、努力し続けた。いささか子供っぽいまでの奇行は、そんな動機から発している。たとえば彼の異様な軍服。軍隊では全員が同じ軍服を着るのが一体性の証だが、マッカーサーは敢て原則を破り、目立とうとした。注意する友人がいると、『軍人は、いかなる命令を無視するかによって有名になる』と、平然としていた。(154)

「許可を求めるな謝罪せよ」というのがしばしばソフトウェア業界で引用される言葉であるが、マッカーサーはそれを突き抜けた言葉を残している。戦闘中には命令を無視することによって成功を収めることもあるかもしれないが、平時においても命令を無視しておくというのは一味違う。

ニクソンの指導者論

『偉業は、偉人を得ずして成ることがない。そして、偉人たちは偉大たらんと決意する意志力により偉大になる。』ドゴールは、そう書いている。指導者として大成する人は、強い意志を持ち、他者の意志を動かすすべを知っている。私が前章までに書いてきた指導者たちは、程度の差こそあれ、いずれも歴史に自己の意志を刻んだ人々だった。彼らが通常人より一段と高いところにいるのは、彼らがそうあろうと“願望”したからではなく“決意”したからである。この差が、権力とその行使を理解するうえで非常に大切になってくる。願望は受身だが、決意は能動。追随者は願望し、指導者は決意する。(414)

「追随者は願望し、指導者は決意する。」は引用したくなるフレーズ。我が身を省みると、自分は願望してばかりだと思う。

強い意志の力、強い自我意識なくしては、人は偉大な指導者になることはできない。最近はなるべく自我を隠し、自我意識などないようなふりをし、ひたすら低姿勢をとるのが流行のようになっているが、私は自己中心的でない大指導者など見たことがない。謙虚を装う人はいるが、実はそうでなく、彼らの謙虚はマッカーサーのコーンパイプがポーズであったように、ポーズであり、チャーチルの気取りがポーズでだった意味で気取りにすぎない。指導者がもろもろの勢力に打ち勝とうと思えば、それだけ自己を恃むところがなければならないし、指導者にふさわしく自分を鞭打って働くためには、それだけわが大義を信じていなければならない。自己を信じられないようでは、他人に向かってわれを信じよなど言えた道理がないからである。(428)

指導者は自分自身を、自分自身の大義を信じなければならない。謙虚を装うときも自覚的であらねばならないという教えは、なるほどと思うところがある。周りの意見にばかり耳を貸している自分には耳が痛い。

私が知遇を得た偉大な指導者にほぼ共通している事実は、彼らが偉大な読書家だったことである。読書は精神を広くし鍛えるだけでなく、頭を鍛え、その働きを促す。今日テレビの前にすわってぼんやりしている若者は、あすの指導者にはなり得ないだろう。テレビを見るのは受身だが、読書は能動的な行為である。(446)

この一節に接する瞬間は読書をしていたが、「ごめんなさい」となった。最近は読書にも身が入らず、受動的な娯楽をばかり楽しんでいるので、状況を打開したいと思う。